考えごとのひとりごと

日々のふとした疑問、悩みごとをゆったり語る場所。

自分の性が分からない私が「セクシャルフルイディティ」という言葉を聞いて

小さいころから「女の子らしくしなさい」と親や親戚から言われる割には、母親からは「ピンク色はお前には似合わない」「フリフリした服はやめなさい」というダブルスタンダードを受けていたわたし。

気づけば、わたしの頭の中には「女の自分」と「男の自分」が混在するようになった、という話をします。

 

女である自分と男である自分は、頭の中で必要に応じて切り替えることで共存している。例えば性別は関係なく誰かと話すときには女として振る舞うけれど、一人でいられるときは男である。ちなみに彼氏といるときはもちろん女である。これは別に無理して合わせているわけではなく、スイッチがただ切り替わるだけだ。

もしかして、二重人格なのか?と、本気で悩んだこともあった。でも、意識が解離しているわけではないし、二重人格というより「二重性格(志向・嗜好)」に近く、それで第三者への行動が変わるわけでもないので、違うという結論に至った。

きっと、生まれてからずっとある「男に生まれたかった」という羨望がそうさせているんだろうと思う。

 

小さいころから男子と遊ぶのが好きだった。

趣味も合うし、変な派閥も無いし、言いたいことをずばっと言える。多少のやらかしも冗談で笑い飛ばせる。「あなたって女子より男子と遊んでるほうが楽しそうよね」と嫌味を言われることも多かったが、そんなことを言われるようなグループでつるむよりマシだと思い、気にならなかった。「男子に媚びを売っているのよ」という陰口も、ショックを受けたが気にしないことにした。

そんな楽しい日々も、思春期で体つきが変わってだんだんと異性を気にするような歳になると終わりを告げる。わたしは人より成長が早かったので、胸が出るのもクラスで一番早く、男子といるとからかわれるようになった。「女のくせに俺たちの中に入ってくるな!」と追い払われ、つくづく「性ってめんどくせえものだな」という思いが募った。

 

また、「女は女らしく、男の言うことを聞きなさい」というのが母親の家系の考えである。親戚一同が集まる盆の季節には、男女の席が分かれており、女は料理の支度が終わるまで座ることができない(男はさっさと飯を食っている)。

成長するにつれ、その男尊女卑の刷り込みも増え、日に日に女である自分を許容しがたい気持ちになった。

その結果、今のような男と女の自分が共存する形になった。初めのほうはどっちの自分がわたしなのかとパニックになったので、日記を書く形でそのバランスを保っていたが、今ではその必要もなくなった。

 

今まで性的に好きになったのは男性だけだが、男である自分のときは女性も良いなと思うことがある。とはいえ、社交的な場面になると女性である気分になるので、別にこれまで人間関係で影響を及ぼしたことはない。

容姿については、ちょっと前まではボーイッシュだったが、最近は女の子らしい服も増えた。彼氏ができたことで、自分の性を自覚したのだろうと思う。男性である自分から見ても「こういう女が良い」と思う服や化粧をすることで均衡を保っている。

人生の中で、ちょっとずつ性が変わっているんだな、という気がしている。

 

「セクシャルフルイディティ」という言葉があるらしい。

性別は流動性のあるものであるという考え。とどのつまり「好きな人が好きでいいじゃない!」ということだろうと思う。わたしも同感だ。いまの彼氏が好きなのならそれでいい。自分がどんな性別であっても別にいいんだなと思えてきている。

 

とりあえず大事なのは、女性を辞めたいと思ってしまうことを辞めることだ。

 

この世の中は女性であるだけで、社会的に損することが多すぎる。結婚をしない女性、出産をしない女性への心無い言葉も多いし、それらをたとえしたとしても、言葉の暴力で叩かれる。基本的に人権はないと思っている。

でもそれはあくまで世間様の話であって、自分がどう思うかは別だ。好きな人と愛し合うことに社会的規範もなにも関係ない、という強い思いを持っていたい。

これからの長い人生、どんな恋愛をするのかわからないが、自分と相手の幸せがあれば、もうそれでいいやという気持ちで生きていこうと思っている。