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ココロをいたわるブログ

言えないけど書きたい心の声

父が脳梗塞で入院した話。

父が軽い脳梗塞を起こし、一週間入院した。

今日がその退院祝いだ。
病院の常食に飽きた父の「お寿司が食べたい」とのリクエストに応えて、ちょっと豪華な夕食になった。

 

父は臨床検査技師で、根っからの仕事人間。

50歳を越えた今でも、当直と夜勤は若い人と同じ量をこなす。


「俺が休むと病院が回らない」「休ませてもらえない」と管理職の悩みをたまにこぼしているが、
本当のところ、父はそんな仕事が好きで、やりがいがあって、
休ませてもらえないのではなく、休みたくないと心のどこかで思っている事を、わたしは小さい頃から感じ取っている。

 

小学生の頃に、「お父さんとお母さんのお仕事を調べて、インタビューをしよう」という宿題が出された。
今のご時世、複雑な家庭環境を持つ子どもへの配慮から、家庭に踏み入るようなことは学校ではご法度なのかもしれないが、

個人的にはコレはやっても良いんじゃないかなと思う。

 

わたしの母も、父と同じく医療系の仕事だ。
家のベランダにはスーツやワイシャツではなく2人の白衣とナース服が干されているし、わたしのかかりつけ医は2人の上司で、受付では常に顔パスである。

 

仕事場を見せてもらった事も何度もあった。

だから、子どもながらに将来は両親と同じ道を進むことを考えていた。


学校の宿題で出されたインタビューの内容は今でも覚えている。

 

「お仕事で楽しいことはなんですか」と訊くと、

「入院していた患者さんが退院して、『ありがとう』と言われること」。


「お仕事で辛いことはなんですか」と訊くと、

「前の日まで元気だった人が、次の日には病室のベッドから居なくなっていること」。

 

医療の現場では、他人を救うことが仕事だが、それはあくまでその人の通過点でしかない。「帰ってこない方が良い場所」だからだ。
もちろん、助けたい人を助けられないときも、たくさんある。

自分のしたことが報われなくても、結果として、誰かの為になれなかったとしても、働かなくてはならない。

 

医療だけでなく、知られていないだけでかなり激務な教師、保育士など、お金に換算されない「やりがい」のためにやる仕事が世の中には多く存在する。

これぞほんとうの「サービス業」だと思う。

これらは、「誰かの為になりたい」だけでは務まらない。「たとえ誰かの為になれなくても、構わない」という吹っ切れた意志が必要だ。そこで踏ん張って、また次の誰かの為になろうとする。じゃないと、見返りを求めてしまうからだ。

仕事に明確な評価がないのも特徴だと思う。


両親はいつも、自分を犠牲にして、他人を助けている。

その大変さと尊さを知った、このインタビューをきっかけに、

諦めというよりも降参に近い形で、わたしにはこの仕事は出来ないと気づくことが出来た。

 

父は、入院してすぐに部下に仕事の引き継ぎを行い、仕事復帰の心配をしはじめた。
脳梗塞で手元のしびれが残ったのを気にして、「検査室から道具を借りてきて、手先の細かい作業のリハビリがしたい」と半分冗談で半分本気なことも言い出した。(もちろん冗談だ)
仕事復帰の日にちが再来週と決まると、大人しくベッドで寝て起きてを繰り返すようになった。

 

仕事人間の人から、仕事を奪い上げることは、その人のアイデンティティを奪い上げることにほかならない。
父は初めて仕事が無い状況で何をして良いのか分からなくなったようで、一週間病室のベッドでずっとゲームをしていたらしい。本当にプライベートに至っては時間の使い方がド下手だ。

 

「ゆっくり休んでね」ではなく、

「早く良くなるといいね」「みんなが待ってるよ」と、

あえて急かす方が良いケースがあることを学んだ。
真面目な人へは特に、である。

 

成人を迎え、最近日本酒がいけるようになったわたしに「お前と一緒に酒が飲める日が来るとは」と嬉しがっていた父。
「もうタバコはダメだけど、お酒はちょっとだけなら」と主治医の先生からOKが出た。
いつか、孫ともお酒を飲む日が来るのかな。来てほしいな。

 

 

医療の現場にかかわらず、
誰かの為に働く人が、報われる社会になりますように。